わかりやすい近代西洋史:大航海時代(3)

 

このページでわかること

大航海時代はヨーロッパにどのような影響をもたらしたか

大航海時代のまとめ

 

大航海時代がもたらした影響

大航海時代によってヨーロッパが全世界とつながることで様々な影響が生まれました

ここではその影響について見ていきたいと思います

 

まず、アメリカ大陸の新しい栽培植物がヨーロッパやアジアに渡ることでそれらの地域では安定した食料供給を実現することが可能になりました。

 

これらの新しい食料が本格的に生産されるようになったのは1600年以降のことだったようで、16世紀の飢饉に対応することはできませんでしたが、それ以降の人口増加と都市への人口集約に貢献しました。

 

また、グローバル化によってそれぞれの土着の疫病が新しい世界へ輸入することになりました

 

ヨーロッパでは梅毒が蔓延した程度でしたが、アメリカへはアフリカから輸入されたマラリア黄熱病によって先住民に大量の死者を出しました。(例えば アメリカのスペイン帝国領内は1500年には5000万人いた先住民が1650年頃までに10分の1以下の400万人まで減少したと言われています )

 

さらに、メキシコからヨーロッパに流入した大量の金銀が、ヨーロッパ形の物価を引き上げることになりました。

 

物価の上昇によって社会のあらゆる階層で将来に対する不安が湧き上がり、人々は新しい救いを求め、これが宗教改革への下地となっていきました。

 

全体のまとめ

最後に大航海時代で起きたことをまとめます

 

大航海時代造船技術や航海術の向上とキリスト教の伝道への熱意を背景として行われました。これは当時のヨーロッパのみが船からの火器による砲撃という圧倒的な優位を有していたことにより急速に全世界で成功を収めることになりました。

 

大航海時代の先頭に立ったのはスペインとポルトガルでした。スペインは南アメリカ大陸を中心に勢力を広げ、ポルトガルはアフリカ大陸、 さらにはアジアでの貿易を独占しました。

 

しかしスペインはヨーロッパ国内での戦争と膨大な植民地領土の維持で疲弊し、ポルトガルもヨーロッパでの相対的な軍事力の地位が低下し、オランダが一時期、世界経済の中心となりました。

 

しかしそのオランダもイギリスとの対立により弱体化し、最終的にはイギリスが世界中に領土を広げることになりました。

 

また、アメリカ大陸からの金銀の流入により価格革命が起こり、ヨーロッパでは広い範囲で社会不安が巻き起こりました。

 

まとめ

大航海時代によってヨーロッパはアメリカ大陸やアジアなどの新しい世界とつながる機会を得た。

 

それによって一部の国家は莫大な利益を上げることに成功したが、価格革命により社会に不安が巻き起こった。

 

大航海時代によって、世界経済の中心地は、初期はスペインやポルトガル、後にオランダに移り、最終的にはイギリスが世界経済の中心となった。

わかりやすい近代西洋史:大航海時代(2)

 

このページでわかること

ポルトガル、スペインがそれぞれどのようなルートでアジアへの道を開拓したか

 

ポルトガルの海外進出

今回は大航海時代におけるポルトガルとスペインの世界進出を見ていきたいと思います

まずはポルトガルについてです。

 

ポルトガルは、地図を見てもらえばわかると思いますが、陸はスペインに囲まれて領土拡大は不可能。この当時の貿易の中心地であった地中海の貿易はイタリアの諸国が専有しており新たにポルトガルが参入することも不可能という状況でした。

 

そういった事情もあってポルトガルが今後の発展を目指すためにはヨーロッパの外へ進出することが不可欠でした。

 

ポルトガルの海外進出計画は、初期にはポルトガル国王の弟であるエンリケ王子によって進められました。エンリケ王子は南に航路をとり、アフリカを越えインドにたどり着くルートを開拓することに決めました。

 

理由としてはサハラ以南にあると言われる黄金や香辛料を求めて、あるいはインドに領土を広げていると言われていた、伝説のキリスト教国の国王プレスタージョンとの協力関係を結ぶためだったとも言われています。

 

ここでポルトガルのインド航路の開拓を年表にしてみていきたいと思います。

 

1420年マデイラ諸島に入植(モロッコの西側にある小さな島。カナリア諸島の北にある)

1434年にサハラ西南部を超える

1473年赤道通過

1487年喜望峰到達

1498年ヴァスコ・ダ・ガマがインド到達

翌年の99年にはインドからポルトガルに帰還し、ポルトガルーインド間の航路が完成した

 

こうして、インドの香辛料をヨーロッパで販売するという新たな資金源を手に入れたポルトガルは、後にオランダやイギリス、フランスがその地位を脅かすまで莫大な収益を稼ぎ続け、首都リスボンは一時期世界の経済の中心になりました

 

スペインの世界進出

次はスペインについて見ていきます

 

ポルトガルの世界進出を見たスペインもまたヨーロッパの外に目を向けます。

 

ポルトガルはアフリカ大陸を回ってインドにたどり着くルートを開拓しましたが、

スペインは天文学者トスカネリの助言により、インドに到達するためには大西洋を横断した方が早いと判断しました。そのためスペイン国王イザベル(在位1474-1504)は1492年コロンブスを西方へ出発させました。

 

もちろんスペインから大西洋横断すればアメリカ大陸に着くわけです。この当時はアメリカ大陸の存在自体知られていませんでしたから、コロンブスは自分が到着したアメリカ大陸をインドだと思い込んでしまいました。とはいってもその数年後にはアジア大陸でないことは明らかになっていたようです

ここではスペインの世界進出を年表にしていきます

1492年コロンブスによりアメリカ発見

1522年マゼランにより世界一周達成

アメリカ大陸

1521年コルテスによりアステカ王国征服(現代のメキシコのあたり)

1533年ピサロによりインカ帝国征服 (南アメリカ大陸の太平洋側にあった国)

1571年メキシコ経由でフィリピンに植民地設置

 

のようにスペインはアメリカ大陸やフィリピンに植民地を広げ全世界に広大な領土を持つことになりました。

 

ポルトガルとスペインの協力

ポルトガルとスペインはそれぞれ大西洋で広大な領土と利権を手に入れました後、この2国はお互いの利益を確保するために協定を結ぶことになりました

 

1479年にアルカソバス条約でヨーロッパ以外の海域での交易について協定を結びました

 

1494年にトルデリシャス条約によってアフリカ大陸はポルトガルが支配、アメリカ大陸はスペインが支配することが決定されました(とはいってもこの時期にはアメリカ大陸の全容は全く分かっていませんでした)

 

1500年にポルトガルはアフリカからインドへ向かう際に、嵐を避けるため、船が南米の方に向かい現在のブラジルを発見しました。 そのためポルトガルは、南米大陸にもブラジルにだけ領土を持つことになりました。

 

まとめ

 

ポルトガルはアフリカを経由しインドに航路を作った。

 

一方スペインは偶然によりアメリカ大陸を発見し、最終的にはメキシコを経由しアジア大陸に至るルートを設立した。

 

スペインとポルトガルの両国は協定を結ぶことで互いの利益を確保し、植民地経営により莫大な利益を上げることに成功した。

わかりやすい近代西洋史:大航海時代

このページでわかること

 ・なぜ大航海時代が起きたのか

・なぜヨーロッパの世界進出は成功したのか

 

大航海時代はなぜ起こったか


15世紀終わりになるとヨーロッパはその領土拡張に限界を迎えていました。


東方ではロシアが巨大化しており、南方ではオスマン帝国がその脅威は日に日に増大させていました。

そうした中でスペインやポルトガル後にはイギリスやオランダは陸続きのヨーロッパではなく海の向こうの世界に目を向けていました。

 

豊かな国であるスペインやポルトガルは海の向こうにある新たな資源やカトリックの全世界への伝道のために積極的に航海への支援を行いました。

 

そしてヨーロッパは全世界から 新たな資源や技術を手に入れることになりました。 その一方でアメリカ大陸やアフリカ大陸、アジアにおける植民地化と侵略、 またヨーロッパ国内でも新たな資源による混乱を引き起こすことになりました。

 

なぜヨーロッパだけが大航海時代を迎えたのか


西ヨーロッパの国々、特にスペインやポルトガルが全世界に領土を持つことになったのには多くの技術的な背景がありました


一つは航海術の発達です。バイキングの時代から太陽や星座の位置を図り会場で自らの位置を測ることは可能でした。ポルトガルエンリケ航海王子はこの天文学的な位置の測定を天文学者、数学者の力を集結させ、表にしてまとめ、それぞれの船の情報を統合させました。

 

そのため、航海船は大西洋の広い海の中でも十分な情報量でおおよその自らの位置を知ることができました。また中国から伝わった羅針盤もこの位置測定に大きな影響を与えました。(ただしこの段階で、測定できたのは緯度だけで経度は1760年の航海用クロノメーターの開発まで不正確でした )


そして、これらの情報から海図を作成することができるようになり、これによって船は座礁の危険がある沿岸から離れて安全で高速で海を渡ることができるようになりました

 

もう一つは造船技術の革新です。

 

一つは、この時期から船に舵を取り付けるようになりこれによって操船が容易になりました


もう一つは船のマストを従来の1本から3本にしたことです。これによって船の巨大化が可能になり巨大化のためにより強固な構造が必要なりました。そしてより強固な構造のために竜骨の発達などの改善が取られる中で、大砲の反動に変えられる船が生まれました。この強固な構造とヨーロッパの大規模な冶金産業による火器の供給が組み合わさり、この時代でヨーロッパのみが船からの砲撃という圧倒的な海戦での優位を手に入れ世界を支配しました

 

まとめ


15世紀の終わりから西ヨーロッパの豊かな国々は新しい富と電動先を求めて後悔を進めた


ヨーロッパが急速に全世界に勢力を広げた背景には航海術や造船術の発達によって圧倒的な海軍力を持っていたことが背景にあった。

わかりやすい近代西洋史:対抗宗教改革とは何か?

 

このページでわかること

・対抗宗教改革とは何か

・対抗宗教改革、トリエント公会議、イエスズ会について

 

体制レベルでの改革

対抗宗教改革というのは、宗教改革によってプロテスタントが広まったことに対して、カトリック側が自身の教義の見直しや内部改革を行ったものを指します 。

 

対抗宗教改革について考える上で最も重要なものがトリエントの公会議って言う会議なんですが、会議って言っても1日や2日で終わったわけではなくて、1545年から63年の間で3回開かれてそれでやっと決まったってことなんですね。(20年もやってたら何を話してたか忘れそうな気もしますけど)

 

この時に主導権を握ったのがスペインやイタリアの司教なんですけど、宗教改革のことを思い返してみれば、この地域ってプロテスタントがほとんど広まらなかった地域なんですね。

 

例えばドイツであればルター派がいたわけですし、フランスはユグノーというそれなりに大きなプロテスタントの派閥があったわけですけど、スペインやイタリアっていうのはそう言った勢力が育っていなかったということなんです。

 

そういうところ出身の司教からしてみればプロテスタントの事情とか配慮する必要がないわけで、そんなわけでこの会議で決まった方針というのは非常に厳格でプロテスタント側とは相容れないものでした。

 

またこの時に初めて ローマ教皇カトリックの正当性があるということが取り決められました。

 

ちなみに宗教改革の原因になった免罪符はこの時に販売終了してます。やっぱり、評判が悪かったんでしょうかね。

 

結局、カトリックの今後の信仰の形というのがこのトリエントの公会議で決められて、この取り決めが、この後19世紀に至るまでカトリック世界における重要な規範として位置づけられていくわけです。

 

信徒レベルでの改革

これまで体制レベルでの対抗宗教改革を見てきました。


次は一般の信徒レベルでの対抗宗教改革についても簡単に考えてみたいんですけれども、ここで重要なのはイエスズ会という組織です。

 

日本ではザビエルで有名ですけれども、結成したのはスペイン人であるイグナティウス・デ・ロヨラという人物でした。

 

このイエスズ会は形成されたのは1534年で、1540年に教皇から認可されてロヨラをリーダーとして信仰を広めていきました。

 

このイエスズ会がなぜ重要かと言うと、世界中のあらゆる場所へイエスズ会のメンバーを送ることで全世界にカトリックの信仰を広める上で非常に重要な役割を果たしたということです 。

 

そうやって全世界に信仰を広めていく中ではるばる日本にまでメンバーの一人であるザビエルが来たというわけです。

 

 

まとめ

今回は対抗宗教改革についてみていきました

今回のポイントとしては、

 

大規模な改革としてはトリエントの公会議によって現在までに至るカトリック世界の基本的な価値観が決定されたこと

 

一般の信徒レベルとしては1530年に結成されたイエスズ会が全世界に信仰を広める上で重要な役割を果たしたということ

 

以上の2点です。

わかりやすい近代西洋史:イギリス国教会とは何か?

 

 

イギリスの宗教改革

イギリスではルター派でもなくカルヴァン派でもない独自の宗教改革が行われました

それがイギリス国教会です。

 

イギリス国教会の成立はイギリス国王であるヘンリー八世の政治上の要請によって行われました。

 

とはいっても、ヘンリー八世自体がプロテスタントだったというわけではありません。

むしろその逆で、カトリックの敬虔な信仰者としてルター派に対する反論文書を公表するなどプロテスタントと真っ向から対立し、ローマ教皇からの厚い支持を得ていました。

 

カトリック世界からの離脱

1509年にヘンリー八世は亡くなった兄の未亡人であるキャサリン・オブ・アラゴンと結婚することになりました。これはキャサリンが莫大な持参金を持っていたことや相手の両親の希望もあって成立したとされています。

 

しかし二人の子供は死産流産が続き、唯一生まれたのは女性のメアリーだけでした。ヘンリー八世は敬虔なキリスト教信者だったために「これは聖書で禁じられていた兄弟の妻と結婚したことによる神の罰に違いない」と考え離婚を決意しました。

 

この当時、婚姻は協会の管理下にあったためローマ教皇に離婚の許可をもらう必要がありました。

ローマ教皇は離婚に反対するスペインとイングランドの間で板挟みになり結論を先延ばし続けました。

 

結局、イングランドローマ教皇と対立することになり、この時ヘンリー八世の側近として仕えていたウルジー枢機卿が対立の責任を問われ、失脚することになりました。

 

ウルジー枢機卿に代わって、リーダーとなったのが後にトマス・クロムウェルです。

ピューリタン革命のクロムウェルの先祖にあたるらしいです)

 

クロムウェルは王と議会の協力により、 ヘンリー8世は1534年に首長法を制定しました。

 

これは、「国王をイギリス国教会の長とする」という法律で、これによってローマ教皇を頂点とするカトリック勢力圏から離脱しました。

 

またカトリック勢力の拠点であった、修道院を廃止し、修道院の土地や財産を貴族やジェントリー階級へ売却しました

 

ヘンリー八世は プロテスタントの弾圧を行いながらも一部プロテスタントと協力しこれによりイギリス国内にはプロテスタント勢力が残存することになりました。

 

国民や貴族はこの国王主導の宗教改革を望んだわけではありませんでしたが、恐怖政治のもとに従うことになりました。

イギリス国教会の完成への道のり

ヘンリー八世の後継者であるエドワード6世イギリス国教会の教義を広め改革を進めました。

 

しかし次の後継者であるメアリー1世はカトリックの敬虔な信仰者でありカトリック復権を企てました。

 

その一つとしてプロテスタントの弾圧を行い、300人ものプロテスタントを処刑したことから「流血のメアリー」と言われプロテスタント信者からは恐れられました。

 

しかしメアリー一世の統治も長く続かず即位してからわずか5年後にはエリザベス一世が統治することになります。

 

エリザベス1世は、 ヘンリー八世の方針を継承することを宣言し、1559年(礼拝様式)統一法を制定し、これによってイギリス国教会のシステムが確立されました。

イギリス国教会がイギリスに与えた影響

イギリス国教会はほぼカルヴァン主義を採用していましたが司教制の存続など一部の部分ではカトリックのシステムを残し、これは急進的なプロテスタント主義者であるピューリタンからの反発を招きました

 

またヘンリー8世からエリザベス1世に至るまでの宗教改革に議会による法律制定の支援が行われたことがその後のイギリスの国内政治における議会の重要性を高めました

まとめ

イギリスは国内政治上の観点から独自の宗教改革が行われた

 

イギリス国教会はヘンリー八世に始まり、エリザベス一世の時代に完成した

 

イギリス国教会の成立を通し、国王と議会が協力するという関係が生まれイギリスの議会政治に大きな影響を与えた

わかりやすい近代西洋史:宗教改革とは何か?

 

宗教改革の背景

宗教改革が広まった原因には中世ヨーロッパの経済成長が止まり、疫病や飢饉に襲われたこと。それによって既存のカトリック宗教ではなく新しい救いを提供できる宗教が求められたことが背景にあります

そのような新しいキリスト教の宗派の一つとして人文主義のグループであるエラスムスと呼ばれるグループが現れました。

彼らは直接的にキリスト協会と争うことはありませんでしたがカトリックの教義体系を厳密に検証し後の宗教論争の基盤となる議論を引き起こしました。

またこのようなカトリック教会の絶対的な権力に疑問を持つ人文主義の思想が一般の人々の間に広がることになりました

ルター派の誕生と宗教改革

そのような下地をもとにして1517年にルターが95ヶ条の論題を発表しました

ルターは勤勉なキリスト教徒であり、この当時カトリック教会が発行していた免罪符に対して、キリスト教の教義を冒涜していると強く批判しました。

この時期にヨーロッパに普及された活字印刷術の効果もあり、この九十五箇条の論題はドイツ人に広がることになりました

この結果としてドイツ国内でプロテスタントを自称する諸侯が現れカトリック教会の守護者である神聖ローマ皇帝と することになりました

このプロテスタントカトリック諸侯の争いは実際の戦争に進む直前まで進展しました。

これを恐れた神聖ローマ皇帝は1555年にアウグスブルクの和議においてプロテスタント神聖ローマ帝国諸侯が信仰することを認めました。

このようにルターによる宗教改革カトリック教会の支配に大きな打撃を与えることになりましたが、ルター派そのものはあくまでもドイツ国内または一部の北欧諸国に及ぶのみでした。

カルヴァン派の誕生

こうしたルター派とは別にカルヴァン派と言われるプロテスタントの集団も現れました

このカルヴァン派の思想は非常に独特であり、選ばれた選民のみが救われるといったものでした(選民思想)。この選民というのは自身の仕事に励むことで近づけるとされ、ヨーロッパの職人階級から広く支持を受けました。

こうしてカルヴァン派は西欧諸国に広がることになりました。

特にフランスではユグノーと呼ばれる一大派閥になり、イギリスではイギリス革命の主導力となるピューリタンとなり、それぞれの国内問題に大きな影響を与えることになります。

まとめ

宗教改革カトリック教会の腐敗した体制が人々の救済への欲求を満たせなくなったことで発生した。

 

エラスムスは議論の基盤となるカトリック教義の見直しを行った。

 

ルターはカトリック体制に対し正面から抵抗しプロテスタントと呼ばれる人々を生むことになった。

 

選民思想を主とするカルヴァン派は諸国の民衆から支持され各地で大きな政治的影響力を持つことになった。

 

 

 

イギリス革命とは何か?

 

イギリス革命とは

イギリス革命とは1640年から1660年の間にイギリスで起きた改革のことです。

とは言っても20年間戦争を続けたわけではありません。

 

イギリス革命は大きく二つの段階があることをまずは確認しましょう。

①1640年の議会の再開~1649年のチャールズ一世の処刑と共和制の開始まで

②1649年~1660年のイギリス共和国の終了と王政復古まで

 

イギリス革命開始まで

まずは1640年のイギリスの内戦が始まるまでの出来事について確認しましょう。

 

事の起こりは1603年に遡ります。

1603年にスコットランド系の王室であるスチュアート家からジェームズ一世がイギリス国王に即位しました。

 

ジェームズ1世の孫であるチャールズ一世王権神授説を唱え、これは市民層からの抵抗や厳格なキリスト教信者であるピューリタンの強い反感を招きました。

 

1628年に権利の請願が提出されるとチャールズ一世はこれに対抗して議会を解散させました。

 

1639年のスコットランドの反乱に対する戦費徴収のために1640年に議会を再開させましたが、国王への不満が噴出し、チャールズ1世は武力行使による制圧を決意。

(チャールズ一世はスコットランドの国王も兼任していたのでスコットランドの反乱に兵を出す必要があったわけです。この段階ではスコットランドはイギリスとは別の国です。)

 

議会を解散させ、いよいよ1642年王党派と議会派の間で内戦が始まりました

 

1649年から1660年のイギリス共和国の時代については次のページで取り扱うことにしましょう

 

ポイント

1603年 ジェームズ一世即位(スコットランド系王室) 王権神授説

1628年 権利の請願提出 チャールズ一世は抵抗し議会解散

1642年 内戦開始 49年に議会派のリーダー、クロムウェルの勝利