わかりやすい近代西洋史:イギリス国教会とは何か?
イギリスの宗教改革
イギリスではルター派でもなくカルヴァン派でもない独自の宗教改革が行われました
それがイギリス国教会です。
イギリス国教会の成立はイギリス国王であるヘンリー八世の政治上の要請によって行われました。
とはいっても、ヘンリー八世自体がプロテスタントだったというわけではありません。
むしろその逆で、カトリックの敬虔な信仰者としてルター派に対する反論文書を公表するなどプロテスタントと真っ向から対立し、ローマ教皇からの厚い支持を得ていました。
カトリック世界からの離脱
1509年にヘンリー八世は亡くなった兄の未亡人であるキャサリン・オブ・アラゴンと結婚することになりました。これはキャサリンが莫大な持参金を持っていたことや相手の両親の希望もあって成立したとされています。
しかし二人の子供は死産流産が続き、唯一生まれたのは女性のメアリーだけでした。ヘンリー八世は敬虔なキリスト教信者だったために「これは聖書で禁じられていた兄弟の妻と結婚したことによる神の罰に違いない」と考え離婚を決意しました。
この当時、婚姻は協会の管理下にあったためローマ教皇に離婚の許可をもらう必要がありました。
ローマ教皇は離婚に反対するスペインとイングランドの間で板挟みになり結論を先延ばし続けました。
結局、イングランドはローマ教皇と対立することになり、この時ヘンリー八世の側近として仕えていたウルジー枢機卿が対立の責任を問われ、失脚することになりました。
ウルジー枢機卿に代わって、リーダーとなったのが後にトマス・クロムウェルです。
クロムウェルは王と議会の協力により、 ヘンリー8世は1534年に首長法を制定しました。
これは、「国王をイギリス国教会の長とする」という法律で、これによってローマ教皇を頂点とするカトリック勢力圏から離脱しました。
またカトリック勢力の拠点であった、修道院を廃止し、修道院の土地や財産を貴族やジェントリー階級へ売却しました
ヘンリー八世は プロテスタントの弾圧を行いながらも一部プロテスタントと協力しこれによりイギリス国内にはプロテスタント勢力が残存することになりました。
国民や貴族はこの国王主導の宗教改革を望んだわけではありませんでしたが、恐怖政治のもとに従うことになりました。
イギリス国教会の完成への道のり
ヘンリー八世の後継者であるエドワード6世はイギリス国教会の教義を広め改革を進めました。
しかし次の後継者であるメアリー1世はカトリックの敬虔な信仰者でありカトリックの復権を企てました。
その一つとしてプロテスタントの弾圧を行い、300人ものプロテスタントを処刑したことから「流血のメアリー」と言われプロテスタント信者からは恐れられました。
しかしメアリー一世の統治も長く続かず即位してからわずか5年後にはエリザベス一世が統治することになります。
エリザベス1世は、 ヘンリー八世の方針を継承することを宣言し、1559年(礼拝様式)統一法を制定し、これによってイギリス国教会のシステムが確立されました。
イギリス国教会がイギリスに与えた影響
イギリス国教会はほぼカルヴァン主義を採用していましたが司教制の存続など一部の部分ではカトリックのシステムを残し、これは急進的なプロテスタント主義者であるピューリタンからの反発を招きました
またヘンリー8世からエリザベス1世に至るまでの宗教改革に議会による法律制定の支援が行われたことがその後のイギリスの国内政治における議会の重要性を高めました
まとめ
イギリスは国内政治上の観点から独自の宗教改革が行われた
イギリス国教会はヘンリー八世に始まり、エリザベス一世の時代に完成した
イギリス国教会の成立を通し、国王と議会が協力するという関係が生まれイギリスの議会政治に大きな影響を与えた