わかりやすい近代西洋史:大航海時代(2)
このページでわかること
・ポルトガル、スペインがそれぞれどのようなルートでアジアへの道を開拓したか
ポルトガルの海外進出
今回は大航海時代におけるポルトガルとスペインの世界進出を見ていきたいと思います
まずはポルトガルについてです。
ポルトガルは、地図を見てもらえばわかると思いますが、陸はスペインに囲まれて領土拡大は不可能。この当時の貿易の中心地であった地中海の貿易はイタリアの諸国が専有しており新たにポルトガルが参入することも不可能という状況でした。
そういった事情もあってポルトガルが今後の発展を目指すためにはヨーロッパの外へ進出することが不可欠でした。
ポルトガルの海外進出計画は、初期にはポルトガル国王の弟であるエンリケ王子によって進められました。エンリケ王子は南に航路をとり、アフリカを越えインドにたどり着くルートを開拓することに決めました。
理由としてはサハラ以南にあると言われる黄金や香辛料を求めて、あるいはインドに領土を広げていると言われていた、伝説のキリスト教国の国王プレスタージョンとの協力関係を結ぶためだったとも言われています。
ここでポルトガルのインド航路の開拓を年表にしてみていきたいと思います。
1420年マデイラ諸島に入植(モロッコの西側にある小さな島。カナリア諸島の北にある)
1434年にサハラ西南部を超える
1473年赤道通過
1487年喜望峰到達
1498年ヴァスコ・ダ・ガマがインド到達
翌年の99年にはインドからポルトガルに帰還し、ポルトガルーインド間の航路が完成した
こうして、インドの香辛料をヨーロッパで販売するという新たな資金源を手に入れたポルトガルは、後にオランダやイギリス、フランスがその地位を脅かすまで莫大な収益を稼ぎ続け、首都リスボンは一時期世界の経済の中心になりました。
スペインの世界進出
次はスペインについて見ていきます
ポルトガルの世界進出を見たスペインもまたヨーロッパの外に目を向けます。
ポルトガルはアフリカ大陸を回ってインドにたどり着くルートを開拓しましたが、
スペインは天文学者トスカネリの助言により、インドに到達するためには大西洋を横断した方が早いと判断しました。そのためスペイン国王イザベル(在位1474-1504)は1492年コロンブスを西方へ出発させました。
もちろんスペインから大西洋横断すればアメリカ大陸に着くわけです。この当時はアメリカ大陸の存在自体知られていませんでしたから、コロンブスは自分が到着したアメリカ大陸をインドだと思い込んでしまいました。とはいってもその数年後にはアジア大陸でないことは明らかになっていたようです
。
ここではスペインの世界進出を年表にしていきます
1492年コロンブスによりアメリカ発見
1522年マゼランにより世界一周達成
アメリカ大陸
1521年コルテスによりアステカ王国征服(現代のメキシコのあたり)
1533年ピサロによりインカ帝国征服 (南アメリカ大陸の太平洋側にあった国)
1571年メキシコ経由でフィリピンに植民地設置
このようにスペインはアメリカ大陸やフィリピンに植民地を広げ全世界に広大な領土を持つことになりました。
ポルトガルとスペインの協力
ポルトガルとスペインはそれぞれ大西洋で広大な領土と利権を手に入れました後、この2国はお互いの利益を確保するために協定を結ぶことになりました
1479年にアルカソバス条約でヨーロッパ以外の海域での交易について協定を結びました
1494年にトルデリシャス条約によってアフリカ大陸はポルトガルが支配、アメリカ大陸はスペインが支配することが決定されました(とはいってもこの時期にはアメリカ大陸の全容は全く分かっていませんでした)
1500年にポルトガルはアフリカからインドへ向かう際に、嵐を避けるため、船が南米の方に向かい現在のブラジルを発見しました。 そのためポルトガルは、南米大陸にもブラジルにだけ領土を持つことになりました。
まとめ
ポルトガルはアフリカを経由しインドに航路を作った。
一方スペインは偶然によりアメリカ大陸を発見し、最終的にはメキシコを経由しアジア大陸に至るルートを設立した。
スペインとポルトガルの両国は協定を結ぶことで互いの利益を確保し、植民地経営により莫大な利益を上げることに成功した。